プロフィール

みやびと申します。
ご覧になっていただき、ありがとうございます。

普段は普通の会社員をしながら、独立を目指してインターネット上で文章を書いたり、SNSで知りあった社長さんからライティングの仕事をいただいたりして、生計を立てている31歳です。家族は妻と4歳の子供の3人で暮らしています。

今すごく幸せな日々を過ごすことができています。ただ、これまでを振り返ると波乱万丈な人生だったと思います。まだ30代ですので、これからもたくさんの辛いことや困難が待っていると思いますが、これまでの私の人生を簡単にここでは書いていますので、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです。私のこれまでの経歴と自己紹介を簡潔にまとめています。

・年齢
31歳
平成5年、西暦でいうと1993年生まれ。ドーハの悲劇が起きた年ですね。ゆとり世代とも言われ、社会に出たての頃は、年が10個以上離れた先輩や上司にかなり馬鹿にされてきました。ドーハの悲劇の事といい、何かと負い目を感じているような世代のような気がします。

・経歴
高校卒業後
地元の工業高校を卒業した後、レコーディングエンジニアを目指し、音楽の専門学校に進学します。レコーディングエンジニアというのは簡単に言うと、ミュージシャンがCDを作るための音源を録音をする仕事です。2年制の学校だったのですが、2年の途中で就職が決まり、学校に籍を置きながら上京して働くという、よくわからない働き方をします。2年間学校には行っていませんが、一応専門学校卒業という扱いにはなっています。

初めての就職
東京のとあるレコーディングスタジオ(誰もが知っている)に就職し、
有名なアーティストの方のCD制作の現場を間近で見る貴重な経験をします。

アーティストが歌うためのマイクを準備したり、録音が始まれば
どこから歌いなおしをするのか、もっとオケを大きくしたほうが歌いやすいのか、リヴァーヴ(カラオケでいうエコー)を強めにかけたほうがいいかを
確認しながら、レコーディングを進めていきます。5分間ぐらいの一曲を録音するのに、12時間を使うこともありました。何か世の中の裏側を見たようで、毎日不思議な気持ちで仕事をしていたのを覚えています。

朝8時ごろ出社し、毎日夜中の3時ぐらいまでレコーディングのサポートをするという、激務に耐えられなくなり1年程で辞めてしまいます。

「有名人に毎日会えて羨ましい。」と友達や家族には言われていましたが、仕事となるとそんなことにでは喜べなくなってしまいます。このギャップがかなりきついものがありました。

地元を離れて、大都会で夢の仕事をするという夢を失った私は、「何かアルバイトでもしないとなあ。」と思い、
昔から買い物に行くのが好きだったという理由でドラッグストアでアルバイトを始めます。ここでの経験が後に生きてきます。

ホームシックで地元に帰省
上京して、好きな仕事をするという夢に挫折した喪失感から、かなりのホームシックに見舞われ地元に帰省します。

ただ、地元に帰ってからも、音楽の仕事に携わるという夢を捨てきれない私は、地元のライブ音響などをしている、東京にいた頃の会社と比べると遥かに規模の小さい会社ではありましたが、親戚の紹介でその会社に就職する事になります。

就職した会社は規模も小さく、社長が仕事を持ってきて、社長がその現場を仕切るという、非常に社長との距離がかなり近い環境で、ほぼ毎日一緒に仕事をするという経験をします。

この社長が鬼のように怖かったです。
毎日怒鳴られてました。

しかも、同僚が社長の息子という、最悪な環境で仕事をする事になります。当の社長は、息子には激甘。

私にはかなり厳しくあたる。という、いつ後ろから刺してやろうか?と毎日考えていたぐらい悔しい思いをしました。
この経験があるので、後々、どんな困難もそこまで辛いと思わなくなるという精神力を培うことができました。

この会社は、仕事中に社長のあまりの理不尽な怒鳴りに反発してしまい、舞台で使うマイクを社長に投げつけて職場放棄後、そのまま辞めるというかなり恥ずかしい辞め方をしてしまいました。

ドラッグストアの店長に

もう、音楽の仕事は諦めよう。。。
夢だった音楽の仕事でしたが、夢半ばで諦める事になります。

そう決めてから、以前東京で職を失い際にアルバイトをしていた、地元では有名なドラッグストアが、準社員の募集をしていたので、そのドラッグストアで働くことになります。

面接をしてくれたエリア長が、非常に良い方で、一緒に仕事をする事になり、私の働きぶりをかなり評価してくださり、入社して僅か半年で「店長になってみない?」と声をかけてくれました。

当時23歳でした。23歳で店長!? 自分自身もですが、周りの友達や、家族にもすごく驚かれました。これも何かの運命だなと思い、店長を引き受ける事を決めます。

この仕事が本当に楽しかった。23歳という若さで、毎月の売り上げ4000万円程のお店を任されるというのがすごく嬉しく、自分の裁量で商品のラインナップを考えたり、おすすめ商品の売り上げを伸ばす事に楽しさを感じました。

スタッフも30〜40人ほどおり、毎月のシフトを考えたり、毎日のスタッフのスケジュールを決めて指示を出したり、(こんな経験をできている23歳はなかなかいないよな。)なんて事を思いながら毎日優越感に浸っていたのを覚えています。

飽き性の性格にしては、仕事の面白さもあり、この仕事は5年間続けます。
今もこの仕事の経験が大きく役に立っています。

奥さんとの出会い
前述した、ドラッグストアの店長をしている5年目の時に、異動先の店舗で今の奥さんと職場で出会います。
馴れ初めなどを書くのは少し照れくさいのでいつか話せる機会があればどこかで書こうと思います。

奥さんとは「授かり婚」でした。
付き合って半年でお腹に赤ちゃんがいることがわかります。
人生で、こんな経験をするのは勿論初めてだったので、驚きと嬉しさと、戸惑いと。いろんな感情が一気に溢れたのを覚えています。

この時26歳。
家族を養っていかないといけない立場に急に立つことになります。
この出来事が、今の営業職に就いた大きな理由です。

営業職に転職

なぜ営業職を選んだかというと、元々お客様と関わるということは好きだったのですが、営業の仕事は基本給プラス、成果を上げた分の「インセンティブ」があることに魅力を感じて、「これだ!」とほとんど勢いで決めました。

「家族を男1人で支えてみせる!」そう決意し、思い切って店長という役職を捨て、「営業で稼ぎまくってやる!」と転職を決意します。

営業職に就いてからの、エピソードはこちらに記載をしているのでぜひ
こちらの記事を読んで頂ければと思います。↓

https://note.com/brainy_sedum547/n/nda2db44d0629

住宅営業から住宅アドバイザーへ転職

住宅営業は、とても楽しい仕事でしたが、休みが休みではない、という生活が当たり前で、もっと家族の時間を増やしたいと思い、営業ではなく、住宅には携わっていたいなと思ったので、お客様と、建築会社を繋げるアドバイザーという仕事があることを知り、その会社に転職することになります。年間の休日も多く、週平均の休みが3日ほどあり、これなら家族との時間もしっかりと取れ、給料は営業時代よりは下がりますが、休みの日に、副業をして行けば、家族3人養っていける時間に充てることもできると考え、思い切って転職をしました。

現在

今は、住宅アドバイザーの仕事をしながら、このように休みの日には文章を書いたり、SNSで知り合った社長さんから、文を書く仕事、あらゆるリストをまとめる仕事、アカウント代行などの仕事を頂き、前職よりも総収入をアップすることができています。お陰様で、以前より幸せな日々を過ごすことができています。今後も文章を書いたり、インターネットを通じて人の役に立てるチャンスというのは今後も多くあると思うので自宅や図書館でひっそりと作業をしながら、生計を立てていくという生活をしていきたいと思っています。最終的な目標は今の本業を辞めて、パソコン1台で生活していきます。そんなことは一握りの人しかできないと言われても、自分はできると信じています。

ぜひ、興味があれば私の書いた文章に触れていってください。
少しはどんな人間かわかっていただけましたでしょうか?

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それでは。これからもみやびをよろしくお願い致します。