緩く楽に生きる日々

みやびの過去【社会人編(大手音楽レーベル〜ドラッグストア店長)】

みやび独立思考

工業高校卒の社会不適合者です。ひとりで緩やかに稼ぐ時間を愛しています。「ゆるく楽に生きる」をモットーに、パソコン1台でまったりした生活が継続できる毎日を構築中。潜在意識と、宇宙意識を学べば人生は激変します。私にもできたので、あなたにもできます。 嫌いな言葉:接待、社交辞令、忖度

どうもみやびです

今回はみやびの社会人になってからのことを書こうと思います

社会人になるまでのことは、以前の幼少期編〜専門学校時代編で書いていますので

興味のある方はそちらも読んでみてください

 

前記事にも書いた、専門学校時代に大手の音楽レーベルに就職が決まり

福岡から東京へ上京することになります

専門学校2年の途中でしたが、学校に籍を置きながら働くことになります

 

夢にまで見ていた音楽の仕事に就けた喜び

この喜びは一瞬にして粉砕されていきます

 

募集要項に書いてあった就労時間は10時〜18時

休みは月に〜8日でしたが

これは音楽業界あるあるで、見せかけの募集要項でした

実際は何時から何時までという時間も決まっておらず

 

朝9時から翌日の朝4時まで働いているということも普通にありました

私は足立区の北千住という町に住んでいたのですが、職場は表参道の一等地

自転車と電車で1時間半くらいの時間をかけて通勤していましたが

終点の12時前を過ぎると自動的に帰れなくなり、職場のソファーで寝るということも

当たり前のようにありました

 

平均して毎日終電時間間近まで職場にいるというのが当たり前でした

休みもシフト制とかのレベルではなく、所属長が「明日休んでいいよ」と言われて

初めて休みが決まるような労働体系でした

 

噂には聞いていましたが、ここまで一般の社会との差があるとは

実際に働いてみるまでわかりませんでした

 

実際業務内容としては、勤めている音楽レーベルのアーティストが

C Dをリリースするためのレコーディングという作業のアシスタント業務を行っていました

朝スタジオの掃除から始まり、アーティストのレコーディングスケジュールの確認と

プロデューサーから送られてきている譜面の印刷、レコーディング前にはマイクと機材のセッティングを行い

レコーディングが始まったらアーティストが機械のように歌うので、それをひたすらPCのソフトで

録音開始、録音ストップのように作業を繰り返し、音がうまく拾えていなかったり、マイクの位置がズレていると

レコーディングエンジニア(全体の音のバランスを調整する人)からマイクの位置をもう少し歌い手に近づけてほしいと

注文が入るので、その度ブース(歌い手がいるところ)に行き、マイクの位置を調整したりします

 

仕事自体は、普段テレビに出ているような人たちが目の前に普通にいて

その人たちと一緒に仕事をしていくわけなので、毎日刺激の連続でしたが

労働ということで考えると、19歳とはいえかなり過酷で毎日意識が朦朧としながら

職場にいたような気がします

 

あまりのキツさに2ヶ月という短い期間で

その憧れて入社した音楽レーベルは退職します

まだ学校に籍があったので、ニートではなく学生なのですが

全てに絶望をしてしまった感じがありました

 

学校には2ヶ月で辞めてしまったなんて恥ずかしくて言えるわけもなく

半年経ってようやくお世話になった先生たちに報告をしました

先生たちの「そんなきつい環境でよく頑張ったよ」という言葉がとても温かいのですが

大手のレーベルに就職した学校側からの期待と、今後の卒業生が就職するための道を

自分が閉ざしてしまったような気がして、とても悔しい気持ちでした

 

下ばかり向いていても生きていけないので

仕事を辞めた翌月から

小さい頃から親とよく買い物に行っていた安心感のある

ドラッグストアでアルバイトをすることになりました

 

当時住んでいた近所にあった関東だけにあるドラッグストアチェーン店で

高校生がアルバイトで働いていて、そこの働いている方達の人柄もすごく良く

決まった時間で帰れることのありがたみも人以上に感じながら

レジ打ちや荷出し、期限チェックなどの業務をこなしていきました

この時の経験が後に生きるわけですが、本当にここで働いたことは人生のプラスでした

 

半年ほど、ドラッグストアでアルバイトをしているときに

重度のホームシックに陥り(地元の同級生と連絡を取ってしまったのが一番の要因)

地元の九州に帰ることになります。東京は、約8ヶ月しかいませんでした

たった8ヶ月しかいませんでしたが、毎日が刺激の連続で3年以上いた感覚でした

 

地元に帰ってからは、地元に残っている同級生たちと遊びまくります

親に高い引越し代、学費を払ってもらったにも関わらず

たった数ヶ月で仕事を辞め、東京から尻尾を巻いて帰ってきて

ひどい有様、とんだ親不孝者だと思います

東京でのストレス、フラストレーションが爆発していました

 

しばらく友達と毎日のように遊んでいるのにも飽きがきてしまい

同時に情けなさが襲ってきて、本当にこのままでは人生を詰んでしまう

そう思い、遊ぶのを辞め、しっかり働こうと決意します

 

ちょうど実家のチラシに入っていたドラッグストアのオープンスタッフ募集のチラシが

目に入り、準社員という社員でもなく、アルバイトでもなく優遇の良さそうなポジションの募集をしていたこともあり

また、東京でのアルバイト経験を活かせると思い募集しました

 

面接官は30代前半くらいのブロック長と呼ばれるエリア長の方で

色黒で、とても優しそうな方でした。

これまで経歴を話したり、簡単な計算問題を解き無事に合格することができました

 

合格してからは、新しくお店ができるまでの間

近くの店舗でのレジの練習をしたり、品出しをしたりしました

新しくお店ができるとなってからは、お店に並べるまっさらな棚に

商品をどんどん陳列をしたり、POP(値札)を差し込んだり、販促商品の

特設代を設置したりしました。

新しいお店を立ち上げることの一連の流れをみることができた貴重な体験でした

 

この新店オープンの作業を、面接をしてくださったエリア長と、タッグとなって

仕事を進めていたのですが、そこでの仕事ぶりが評価されてか

そのエリアの1店舗の店長が不在ということで、「あなたがやってみませんか?」と

まさかのお声掛けをいただきます

 

社員でもない準社員の自分がまさか半年で、店舗を任されることになるとは思わず

戸惑いましたが、エリア長の説得で店長に挑戦することを決めます

新店から車で1時間ほど離れている場所に店長を任された店舗はあったのですが

そこから毎日店長として、その店舗に通勤することになります

 

もちろん、その店舗には

ベテランの社員さんや、アルバイトさんがおり

わずか半年しか経験のない、自分が店長として来るわけですから

最初はかなりビビりながら職場に行っていました

 

シフトを作ったり、新人さんへの教育をしたり

商品が売れるための施策を社員と考えたり、大変な毎日でしたが

とても充実していました

 

誰からか指示を出されて仕事をするのではなく、

自身の考えでお店を動かしていくことへの楽しさに取り憑かれていました

そこの店舗で半年間いましたが、半年間で売上の増加が評価され

エリアの中で一番売上の高い店舗を任されることになります

 

ドラッグストアでの仕事での経験を元に

自分は誰かに、指図をされて仕事を遂行していくよりも

どうすればもっと店が良くなるか?

どういう仕組みを作ることが、お店のみんなが働きやすくなるのか?

ということを考えながら仕事をするのが、とても向いていると思いました

これからのことがあるまではすごく順風満帆でした

 

5年間店長として働き、職場で今の妻と出会うことになるのですが

この妻との間で、まさかのできちゃった婚をすることになり職場にいれなくなることになります

同じ店舗で、店長という社員という関係、また女性の多い職場ですから

一部のスタッフからかなりのバッシングをくらうことになります

 

妻との休みが重なっていれば、それをエリア長に報告をされていたり

評価が妻にだけ甘いのではないか?という報告もかなり上がっており

それをエリア長から聞き、さすがにこのままでは職場にいれない

一部の人が許しても、自分が気持ちよく働ける環境ではなくなると思い

 

思い切って転職を決めます

自分の考えで売上を伸ばしたり、成果が挙げられる職

また、その成果によって給与も上がる仕事を探していた時に

「住宅営業」という仕事があることを知ります

 

ドラッグストアの店長という肩書と仕事の面白さを手放すのは

かなり辛かったですが、新しい家族もでき、家族を養っていくということを

考えた時に、これ以上可能性がある仕事はないと思い、大手住宅工務店の

面接を受けにいきます

 

今回は長くなりすぎたので、またの機会に

住宅営業時代の話は書こうと思います

 

 

 

 

 

 

 

 

私の人生を変えた商品はこちら